「恥ずかしい」は快感か
結論を先に言えば、そうかも。ということになるんだけど。
今読んでる本
- 作者: レオベルサーニ,アダムフィリップス,Leo Bersani,Adam Phillips,檜垣立哉,宮澤由歌
- 出版社/メーカー: 洛北出版
- 発売日: 2012/07
- メディア: 単行本
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誰ぞのブログかと思うような、思いつきの羅列かのごとく進む本。文章量も多くはない。が、思いつきの羅列(のごとく)だけあって読みにくい。案外解釈咀嚼に時間がかかる。精神分析に関するあっさーい記憶も結構忘却の彼方なので余計に。時間も掛かるが、斜め速読と言う奥の手を使ってサッサと読み終わりたくないような内容。故にあいだにカフカの短編集とかヴィットコップとか関係ない(かもしれないけどあるかもしれない)ものを差し挟んでのっそりのっそり読んでいる。用語などわからない部分も多いのでちょいとググッたら、結構話題の本だったらしく、複数のツイートを拾った。ゲイカルチャーの(カルチャーと言い切るのには抵抗があるほどの)最も過激な一派(少数派だとは思うけど)に関する考察の部分がイヤがオウにも刺激的で、話題がそちらに集中するのは無理からぬところ。自分も確かにその現象だけ取り出して考えたらさすがに「それは・・・」と思うんだが、コレ(興味のある方はググッて頂けば情報はいっぱい出てきます)日本人には案外理解しやすい解釈かもしれない。「忘我」とか「無の境地」とか好きじゃん、日本人。「自己犠牲」とか。でそれって、すごく禁欲的な場面で出てくる語彙なんだけど、己を棄てるというのが「己に課するものの放棄」と考えると、共著者・アダム・フィリップスの言う
【・・・恥ずかしさはそれどころか、より鮮明にかつ脅威を持って、失敗した経験を通じて、自分がなりたいと考えているものの像に直面させるものである。そうした瞬間に自己はもっとも本質的に自分として存在する。恥ずかしさに耐えられないことは、自分が何になるのかを知らないでいる可能性に耐えられないということである。恥ずかしさとは認知可能な人格としての自己自身の死に近づいていくことの合図である。恥ずべき、または恥ずかしい経験の追及は、時に自我解体や自分がそうなりたいとおもっている人格の消去を(無意識的で不完全に)求めることである。】
と、合致する。
そうか、それって・・・マゾじゃん。
- 出版社/メーカー: ハピネット・ピクチャーズ
- 発売日: 2006/11/24
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Unlimited Intimacy: Reflections on the Subculture of Barebacking
- 作者: Tim Dean
- 出版社/メーカー: Univ of Chicago Pr (Tx)
- 発売日: 2009/06/15
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↑こちら1,2章の「素材」となっているパトリス・ルコントの映画と、ティム・ディーンのレポート。後者は未邦訳だそう。
ゲイ・コミュニティの中で、ベアバッカーはベアバッキングを恥ずかしいと思ってるのかどうか知らんが(著者によると「恥」らしい)それ(禁忌を侵す快楽の追及)をウィルスの継承=「妊娠」と置き換え、それを「目的」としたイニシエーション或いは擬似懐胎と捉えているのならそっちは恥ずかしいのだろうか?そうありたいのだろうか?私の感覚だとそこまで意味を持たせると恥ずかしいというか、それほど「形」を与えらえない立場に傷ついているかのようでなんというか。しかし「深い意味がある」と言うのが、著者、と元ネタともいえるレポートを纏めたティム・ディーンの解釈である。その辺は当事者意識はわからない。性的マイノリティなら解かるって言うもんでも無いし、本人たちが何処まで何を求めているのか結局はもしかしたら当事者にだって解かる事とは限らないだろうが、潜在的な意味を読み取っての考察という事になる。確かにいうなれば時間のかかる自殺であり殺人である。敢えてそれを為そうとする。と言うかそれが大きな誘惑であるという事。
ティム・ディーンのレポートを補足するものとして、ギヨーム・デュスタンというゲイ作家(故人)の「自伝的」小説が取り上げられているがこちらは原典は見つけられませなんだ。
別にゲイとか、HIV陽性とかいう条件がつかなくても、性の「人格崩壊させ力」場合によっては「生命の危険冒させ力」は万人の知るところであるから、この極端な例を用いての考察を、極端に属し得ない人間が、共感と恐怖と幾ばくかの恥ずかしさを持って咀嚼しておるわけで。これはなんだ、アレだ、休日の賑わうショッピングセンターの吹き抜けで、3階ど真ん中辺りから飛んでみたらどーでしょー、とか思いつつ下を覗いていると、お尻がキュッとなる、あの感覚に似ている。(オイ)
自分はその文脈で言えばマジョリティだし、再生産(出産)も完了した。ゲイの学者の足場自体を理解できないと言えばそうなんだろうが、なんでこの本を立ち読みした3軒目の本屋で降参して購入に至ったかといえば、そのタイトルに目を引かれて手に取った中身の「今考えている事」或いは「漠然と感じつつ取り出して名前をつけるところまで言っていない感情」を突いていると感じたからだ。HIVキャリアによるベアバッキングとか知らなかったっすけど。
その漠然を考えつつ読んでたらなかなか進まないと。(爆)
漠然としてたら、フィリップスによるベルサーニの文章に対する考察がさらに突いてきた部分が「恥」と言う切り口だった。
そこで思い出したのが「恥ずかしい」という感情が、多く自分の日常を支配しているという事。そして他者に対して「恥を知らない人」と言ったらそれは私が使う中で最高の侮蔑語である、という事。
「恥を忍んで」という言い回しがあるがそれは「恥」を予め知っているからできることであって「恥知らず」には無関係な葛藤である。
上記「自分はマジョリティ」発言もマジョリティ特有の無反省この上ない宣言で恥ずかしいといえば恥ずかしいが、「負け犬」という言葉が流行った時に「一度でも結婚してたり子供を産んでたら該当しない」と定義されていたり今でも「喪女」といったら交際経験ナシの処女に限るんだとか、そういうことを問題にすると(そういうことが問題なんだと言われるのは承知だけど)内面的な共感できる区分けとは離れるんだなぁ、と思ったので敢えて。「解かった風なことを言うな」と言われるのが恥ずかしいので。(爆)
あ、でもこの場合「完了した」というのが私の側の個人的な一つのキーワードかも知れないが。
で、解かった風の前提としてグッと砕けて笑犬のオカマの潤子ママ(古っ)に共感できる人は漏れなく、喪女だろうがゲイだろうが、そこはかとなくその痛みを感じ取れると強引に定義する。
そういえば「腐女子」の皆さんも結構「恥ずかしがり屋」さんが多いなぁ。「もう私、存在自体が恥ですからあぁぁぁ!」的な。
ま、性癖なんてみんな恥ずかしいもんだろうと思いますし恥ずかしげもなんも無い人はセックスアピールもありません(爆)
あ、ここまで書いて前提条件で終わってる。(爆)
続きは例によってあるかもしれないし無いかもしれない。週末連続拘束勤務が終わってから考える。