ボチボチ小作日記

この日記は フィクションです

時間は見えない

時間の感覚がなく、先を見通す力がかけている。

という言い方があるけれど、

 

あれ?じゃあ、一般の人は時間が「見える」のでせうか?

 

そんなわけあるか。

目では見えなくても何となく感覚的に時間の塊をつかむことが可能な人が多いということだろうか。

自分は「欠けている」といわれるほどではないが、「見えない」人種である。だから時計はいつも5分進めておく。最近の携帯とか、自動で時間を感知する時計はだから、私にとってはカスタマイズできない「使えない」道具だ。

時計を見て、時刻を言語化してから全体の文脈の中で判断して行動に結び付ける。これを毎日毎時、意識して行っている。

「そんなことしてるの?」と言われたのは20代も後半になってからで、「え?違うの?じゃあどうやって行動してるの?普通は」

 

自分の空白は、大体10分ぐらい毎になることが多い。それも記録していて気づいた。

 

日常動作の所要時間をたとえば移動距離を時間に置き換えて「どれくらい?」と、簡単に聞かれると困る。「わからん。明日計ってみるわ」としか答えようがない。

 

 

音楽は時間に目盛を付けてくれるから、許される環境であれば常に流していたい。そして点けておくなら神経を逆なでしたり、集中しすぎて日常の必要の邪魔をするものでも困る。

 この発想はあった↓

 

この場合、視覚情報はあんまり役に立たない。目を閉じたら体のバランスも危うい、基本ものすごく視覚情報に頼って生活している割に、そこからの情報は社会生活の「必要」を満たさないことが多いのだ。

それはその後の整理を経てからでないとまとめて報告することもできないし、過去との比較で気づきをもたらすことで「おもしろさ」詰まるところの「思いつき」「新アイディア」「発想の飛躍」になりうるが、日常には邪魔な情報なのかもしれない。

天は二物を与えず。

視覚優位は実益を与えずw。

感覚器からもたらされる情報は、過去のデータと比較検討されてその時有効と思われる要素の解釈が抽出される。その行程をオートマティカルじゃなく一々意識して「手動で」行う。だから時間がかかるし、途中で手順を分断される事態が差し挟まれると振り出しに戻ったり、もう処理を諦めたりしてしまう。だから「バイパス」が必要になってくる。しかしバイパスは応用が利かない。手順を追って「手動で」思考する事は、イツイカナル時でも利用可能な、雨水再利用みたいなシステムなのだ。多少鈍くさくても良しとしている。 そして、オーバーヒートする「手動システム」は疲労が激しく、クーラントも耳から入れる方法が割と有効。 オーバーヒートがちだから、クーラントが必要。だけど一旦下がると「手動で」時間を計る機能も発動しない(なにせ時間は外付けの物差しでしかない)ので、気付けも必要になってくる。 どっちにしても、手動スイッチを操作する手順が要るんだけど。

 

さ。ここまで書いて何のことやらわからん。相変わらず矛盾や端折りすぎの飛躍。(爆)こんなん書いてる間にほかに作らなきゃならない書類もあったりするのに。そう時間が見えてないから。

 

つまり何を言いたいかと言うと、夏休みの宿題は高校野球の決勝が終わってから始めるクチだったと。