ボチボチ小作日記

この日記は フィクションです

膝の周り

私が子供の頃、なくなった親戚のおじさん。なかなか難しい人で、あまり良く言う人がいなかった。その上長患いしてから亡くなったので、家族の負担は結構なものだっただろう。そのお嫁さん、小柄で大人しくていつも端っこで小さい体をさらに小さく縮こめて黙っている、そんな印象のおばさんでしたその人が数年前、もう相当なおばあさんになって、おでこが地面に付くんじゃないかってくらい曲がった腰で、お達者カーを押しながらヨチヨチやってきて、うちの草刈を手伝うと言う。

「とんでもない、人を頼んだから大丈夫です。機械であっという間ですからお気になさらないで下さい」と母が恐縮して断ると。

 

「そんでも細かいところは機械じゃ出来ないから。こうして座ってこの周りをむしればいい。そしたらこの周りだけでもキレイになるだに。この周りがひとっかたついたらちょっとずれてまたその周りをやればいいだに」

ペタリと地面に正座してそんな事を言ったという。母は思わずおばさんを拝みそうになったそうな。

 

 

 

 

エコライフのスローガン「think globally act locally」って最近聞きませんな。もう廃れたのかしら。

もっと大きく効率よく行けるようになったのかしらね?効率よい方法を方々で編み出している事は確かだろうけれど、だからって「小さい工夫」が意味が無くなったって事は無いだろうと思われる。でも、もっと効率よく結果を出せるなら、その方が良いに決まってる。それが人情。でも、そんな影響力マクロなところで動いてるワケじゃない普通の人はミクロな努力しなくて良いよって事なんでしょうかね。それが正しい。偉い先生やお上が何とかしてくれるんだから、オマエごときは黙って消費生活に溺れてなさい、と?あ、いや言葉が過ぎるのは解かってる。

 

自分のボキャブラリーがあんまり謙虚じゃないと言う自覚はあるけれど、意味はそう大きく違わない。社会的といったって、社会全般に自分が関わっていけるワケじゃない。けど自分は社会の一部である事に変りは無いわけで、社会のありようにどうしたって影響されて生きていくしかないじゃないか。極端な事を言えば「言って解からない馬鹿はほっとけ」ってことなんだろうけれど、事、子供に関してはそうは行かないと思っているんだよ。だって私の子供もあなたの子供も、その中で生きていくんだよ。どんなに周りに流されないで自分で努力して立派になれって教えたって、立派になったその子は社会とかかわりを持たずに生きていくワケじゃないでしょう。同じような立派な子としか付きあわせないって言う考えもあるけれど、それで済むかしらね。

社会が、環境が、今置かれている状況が、というボキャブラリーは、頭の良い人にはいかにも陳腐に聞こえるかもしれないけれど、要は出会ったご縁を大事にしようと言う事、違うものを尊重して共存できる知恵を会得して欲しいということ、そのためには人の子も自分の子と、同じじゃないけど同じ程度には尊重されてしかるべき、と思っているだけの事。

全部社会のせい、なんて言って無いよ。

ただ当たり前が見えずらい今の世の中で、関わる人達には、子供が道標に出来るものを確固として維持して欲しい、ぶれたりだれたりしないで欲しい、という要求は図々しいのかしら。

こころの旅 神谷 美恵子 こころの旅

当たり前が当たり前に、いく?ごくごく普通のことのようで、この普遍を順当に巡っていけない人がかなりのパーセンテージに、というか、ここに書かれている当たり前に「必要な」ことを重視しないで、うかうか大きくなっちゃった大人はいまやいっぱいで、こんな事言ったら「価値観の押し付け」になっちゃう世の中なんだから。でもそれは「常識」「押し付け」から発生していることではなくて、人として必要なもの。水や空気や食べ物の次に、得られなければ危険なもの。蔑ろにされては本当はいけないもの。愛され、尊重され、承認されることなくして、どうして子供は大人になれる?親だけがそれを負い、親に力がなかったら親子ごと見捨てる?その子もわが子と同じ社会を形成していくんだよ。

 

大きなことは出来ないから、出会った人に伝えて、手の届く範囲のことをチマチマやる。決して社会をどうこうする力なんて私には無いし、そんなの求めているわけじゃない。この世の中がどうなろうとも、私もあなたもその一部なんだから。