ボチボチ小作日記

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ramble ramble

つるばらつるばら (白泉社文庫)

つるばらつるばら (白泉社文庫)

 

もう手元に無いんだけどこの漫画、

初めに「ramble」の意味の説明があった気がする。

ぶらぶらするとかうろうろするとか散歩するとか

そして rambling rose と言ったら蔓薔薇を指すと、これで知ったのでした。

 

繰り返し夢に見る【前世】に気を取られて、前生の女性「たよ子」に近づこうとニューハーフ人生へ突進する継男くんの物語。

息子の暴走に毎度大ショックを受けて右往左往するお母さんに対してどこかのんきなお父さんが、「たよ子」が夫と住んでいた「ばらの垣根の家」の話を聞いて、【クワバラクワバラ】と【つるかめ】をかけて「つるばらつるばら」と、つぶやく。(そしてお母さんに怒られる)

大島弓子の短編の中でも一番に近い好きな作品だった気がする。

時々出てくるお父さんお母さんの夫婦漫才も良い味出してたし、一人悲劇的なお母さんの描き方も含めてなんとものんきでふわふわしたお話。思春期には差別的な扱いを受けたり傷ついたりもするわけだが、本人はあくまで「たよ子」のつもりなので基本迷いがない。お母さんが「たよ子なんて知らないけどあんたはあたしが生んだのよ!」と涙ながらに叫んでも「ごめんね」でスルーである。

ニューハーフパブで稼いだお金は旅行と整形につぎ込み、限りなく夢に見た「たよ子」の見た目に近づいて「たよ子の家」と待っているであろう「たよ子の夫」を探し続ける。

周りの心配は全く関知せずその日暮らしである。お店のママに「足腰立たなくなったときどうすんの?」と突っ込まれても「野垂れ死にがステキね」と取り合わない。

 

rambleという語が思い浮かぶ状況は度々ある。

ぶらぶらramblingすることを、継男は【前世の家探し】として確信を持って行っているのだが、普通はぶらぶらすることが目的であることが多いんだろう。今日はどうしよう。ぶらぶらしよう。という。

 

所謂防災放送の「迷い人」は「帰らなきゃ」ってどこに帰ろうとしてるんだろう。

そのうち自分が「帰らなきゃ」って思うのはどこなんだろう?継男のrambleはこっちに近い。

 

なくなった祖母が一時帰りたがったのは、長年住んだ家でも、生まれ育った実家でもなくて、新婚時代にほんの3~4年住んだ家だった。空襲でもう跡形もない場所だけれど、地図を調べたり、その地域の街歩き本を買ったりして、そこそこ我々も楽しんだ。

じゃあ、私が新婚時代に住んでたのは海外だから、

…えええ~、ないわぁ。

 

あ、ただ当時なら「家に帰らないと大変なことになる」という感覚はわかるかも。今は携帯電話もあるし、日本にいる限り、どこにいても何とかなると思い勝ちだけれど海外だとそうはいかない場合が多いからなぁ。「わあ、ここどこ?帰らなきゃ!」とか思うかもしれない。今はそれこそ anywhere I lay may hat is my home♪である。

犬は人に付き、猫は家に付く。と言うけれど、どっちにも付いてる気がしないな。

人生が全体的にramblingかもしれない。

 

社会とのつながりと言う意味では子供が地域の学校に行っていた義務教育の頃ならともかく、その後は仕事でしか継続して持っていない。仕事は当たり前だがやってなければ繋がりは保たれない。家族は孤立したコロニーのようなものだ。

外に派遣されてることが多いから、「事業所に戻りたい」ってか?無いな。できれば直行直帰の方が楽だし。(爆)

 

帰属意識の無さ、に悩んではいないが、疑問を持って久しい。持ってないけど、いいの?的な事を度々考えている。

と、言うかそれは自分が帰属場所そのものを作り損じたという事なのかもしれない。自分にとっての「家族」というのは、物理的に一緒に暮らしている両親を含んでいない。両親に対してはやはり「お邪魔してます」的な感覚であって、身内というと息子のみ、という感覚なんである。その息子が家を出ているので、現在の自分は「糸の切れた凧」なのかもしれない。

継男のように夢の中の家や夫に確信を持って突き進める人は幸せだが、まあもちろんこれは大島弓子独特のファンタジーである。

糸の切れた凧よろしく既に崩壊した家庭を唯一繋ぎとめていた「ボケたお祖父ちゃんが死ぬまで」のドラマを精神年齢を見た目に反映したキャラ設定で描いた同じく大島弓子の短編があって、あれも好きだったけど、タイトル忘れた。