ボチボチ小作日記

この日記は フィクションです

恥ずかしいは快感か・脱線編

※今回エロ要素はありません。本日もよっぱらってます。イタリア土産のグラッパを片付ける為に炭酸入りミネラルウォーターを買ってきました。(爆)これでガブガブ行っちゃいます。

 

↑毎回あるとは言えませんが(爆)ちなみにフィリップスによると「セックスしない事を前提としてしまうと関係が脆弱化する」んだそうで、ああそうか、だから私は人間関係が希薄なのか、とか。おおおおおおい!

 

親密性

親密性

・・・さて。脱線します。

「恥ずかしい」のが「気持ちいい」になるには予め「恥ずかしい」気持ちが無いとどうにもならないわけですが、何が恥ずかしいかは当然のことながら人による。時代による。文化による。

 

ひところ言われた朝の通勤電車の中でメイクする若い女の子の姿を、「恥ずかしい」と思うか思わないか、みたいな話はきっと常にあるわけで、共通認識共通羞恥概念が無いことには成立しない話だったな、と思うわけです。それで滞ってるんですがねぇ。

 

先日、ある思春期の子供の集団を見ていて、ふと思い立って声をかけました。いつもだったら見てみぬ振り、というかピックアップした一人だけをフォローして終わるところを、集団の中に割って入り、【注意】じゃないけどそれに近い介入をしてみました。 

その結果その子供たちはどうしたのか、残念ながらまだ後日の情報が無いのですが。

 

要は【弱い子を集団でからかう】という行為に対して、【あんたたち、やってること恥ずかしくない?】ってことなんだけど、多分あの時点では皆、恥ずかしくはなかっただろう。何せ思春期の男の子集団に対してオバサン一人である。あっちの方があの場のマジョリティだ。

期待しているのはその中の、私が以前から知っている子が【かつてそんな状況を見て抵抗と不安を感じていた自分が、いまや同じ行為を行う様子をずっと見ていた】私の視線に対して、或いは私の背後には彼自身のご両親の影もあるわけなのでそちらへの影響を懸念すれば、元々決しておバカさんではない彼がどう出るか。である。

 

この元々決しておバカさんではない彼、に私の期待は限定されている。他の子達は無理だから。つまり彼以外は注意されても【大人にバレてめんどくせぇ】とは思いこそすれ【恥ずかしい】とはならんだろうな、と。

 

この【他の馬鹿はいいや】(ゴメン)という心理は結構【他は好みじゃないわ】ってことだ。ま、馬鹿には馬鹿へのアプローチ法があり、この馬鹿へのアプローチをわが子には如何無く発揮しとる自分ではありますが(爆)ここでは置いておきます。

やはり、解かり合える(のではないか)と思う期待があって成立するのである。恥ずかしい、も。

 

 

サカナクションの新譜がいつの間にかチャート一位を獲得したんだそうです。ものすごくズレた言いようですが、彼らの作品を知ったのはごく最近のことでして、発売を待って購入したのは前作「ドキュメンタリー」が初めてでした。「へぇ。すごいな最近の邦楽は。トレヴァー・ホーンの中毒性サウンドと日本の現代詩人(適切な例を思いつかないが)が合体したら、あざといけど無敵だしな。」的なことをどっかに書いたんだけれども。しかも山口一郎の声のこの日本的というか親ニューミュージック性というか私小説っぽさと言うか、コレニッポン。顔ナンチャンだし無敵も無敵、聞く人皆が難聴になるほど中毒したらどうするんでしょうか。しかし早くも達成してしまったんですね。国内でのマジョリティを、共通理解を、確かな物にしたんですねぇ。

 

私は母国語を共有しない人と本当には共感できないと、体験的に思っていますが、多くをを共有できないからこそ、ほんの少しの共感が非常に貴重でありがたく思えるという意味で、母国語の違う人、言語理解の「違う」人と僅かな共感を得た瞬間の重さを日々感じては居ります。

でも、本当のことを言えば、共通言語を持たなければセックスアピールも感じなーい。

それは他者との接触というものが単純に肉体感覚のみでは完結しない。脳への更なる高効果こそが快感の源泉であるという、そこが、言い尽くされているとはいえ人間と動物の違いなんだろうと。

コミュニケーションに障壁を伴う相手であっても、まるっきり何も共有できない訳では無いし、人間関係は何も言語だけに頼って成立するものでも無い。言葉を越えるものはいくらでもある。しかし言葉が無い、言葉で表現できない物が、脳内で分類できず名前をつけられない感情感覚が、未整理の断片ファイルとして澱のように沈んで堆積していけばいつかその関係は破綻する、或いはフリーズを余儀なくされると思われる。言葉が要らないほど単純素朴な生活を送っているので無い限り。

言葉は溢れ返っていて、伝える能力の重要性はかつて無いほど強調される。「つまらない」「伝わらない]という評価が「断罪」たり得る。

その中であれやこれやもっともらしく言い訳しながら求めているのは、要は「俺を解かってくれ」いや、「解からない奴は馬鹿だ!」ってことじゃないのか。相手の能力の低さはつまり「俺」に対する理解の低さ薄さ。「シジジィと愛情乞食」の例えを思い出す。これも記憶の澱。

 

共感を強要されるのは誰しもあんまりいい気はしないだろう。でも自分の感情には共感して欲しい、誰しも。

心理操作的な意味合いで、やたらと質問してきたり褒めてきたりする「ビジネスハウツー、自己啓発セミナー系」対人スキルも一部、根強いシェアを維持しているようだ。もっとも「共感」からかけ離れているそれらも、簡単な通貨のような価値があるようだ。

「解かられてしまう」事が「恥ずかしくてキモチ良い」事なら、それらはチートだが、うまくいけばなんかのおこぼれにありつけるのかもしれない。サモシイけど。

 

と、言うわけで脱線は帰着点を持たず。

あああああなにいってるんだかわかんねえよばか。

 

冒頭の彼のその後の行動はまた、会える機会を待って確認するしかない。確認の為にはこっちから積極的につつく必要があるが、彼には期待しているから苦ではない。

 

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 グラッパ、片付いた。