ボチボチ小作日記

この日記は フィクションです

続「恥ずかしい」は快感か

奇跡の【続いた】。(爆)

でも考えたら当たり前ともいえる。(爆)羞恥プレイって一般通念だものね。

 

しかし割と単純な精神構造である自分はあんまり「恥ずかしい人生」を送ってこなかった。「おてんとうさまに恥じることがないように」というのが行動規範である「セックスアピールもありません」な、単純明快な生活者である。

 

「恥ずかしい」と意識しだしたのは結構最近のことで、それまでもそれからも、どっちかって言うと「恥かしがり屋」でも「照れ屋」でもなく、割と「恥ずかしげもなく」「悪びれず」行動する系の人間であると自覚しているが、ここ一年半ばかり病を得て職を変えたり治療しながらお役目を担ったり、常なら簡単だと思っていたことが出来なくなったり、「あらアタシとした事が、」という失態が続きに続き、いつの間にか「いやお恥かしい申し訳ありません」という台詞がすっかり定番化しているのである。「こんなはずでは」状態。

 

社会人として曲がりなりにもそれなりの働きをする人間だと自負していた身としてはやること自体より、思うようなクオリティに達する事ができない自分への失望感のほうがキツかった。

 

しかし、謝り続けてるとなんか不思議と謝るのが楽しくなってくるんである。もうね、人の分でもなんでもまとめて謝っちゃうのが習慣になってきちゃう。もう責められ方が理不尽でも冤罪でもなんでもござれでね。周囲が「ええ何もそんなぁ」と言ってくれても「いえいえ悪いのは私でございます。もうほんとにほんとに」と嫌らしいくらい低姿勢になっていく。

 

変態ですか?

 

と自分に突っ込みを入れてみるもなんというか、己を捨てるというか自分の無力を思い知るというか、自分に多くを望まないというか、そんな心持が、ある意味「失うものは何も無い」的な「も~煮るなり焼くなりどーにでもしてくれ!」的なヤケクソなスッキリ感が生まれたりするのである。

身をすつる すつる心をすてつれば おもひなき世にすみ染の袖 ・・・は一遍上人ですが、ええい袖っつか着物も捨てればジャイナ教もうプライドも捨てちゃえいっそ爽快的な。

遠藤周作の「沈黙」でも、沈黙し続けた「神」彼の主であるイエスが、すべてを捨てたその瞬間、転ばんとするその瞬間に初めて沈黙を破りロドリゴに語りかける

「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」

の、あれ、あー、引き合いに出したら怒られるだろうか(爆) あれってカタルシスであって快感なわけですよね。

しかもあれ、「許されてる」瞬間ですよね。棄教という聖職者として最大の「罪」「屈辱」に墜するその瞬間、「転び」のその瞬間に同時に主イエスによって「許され」るというダイレクトな法悦状態ですよね。

有名どころ

 

聖者の殉教を描いた絵画・彫刻等が、苦痛の瞬間を描いていながらまさに「法悦」の表情なのはよくあるパターンですが、「羞恥」も精神の苦痛であるのだから裏返すと…ああ、これ、どう書いても下品だな。

 

また続くかもしれないし、もう断念するかもしれない。(爆)

 

どうもおつき合いいただき誠にあいすいません。(爆)