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ボチボチ小作日記

この日記は フィクションです

同じ地点に戻ったら、また同じ事をするんだろうから

思いつき 映画

 

ノド元まで出掛かってるのに…思い出しそうで思い出せない。あーっキモチワルイ!という状態。

 

怖い夢の様な、何かの映像作品のような、繰り返すぬるい不快感。

ああなんだコレ。

 

昨日珍しく酒の席で2次3次と繋いでしまいまして、我ながら少々緊張感が薄かったかな、と。

しょっちゅう会うメンバーでなかった事もあってユルユルしすぎた。自己嫌悪、というほどの事も無いが、そこはかとなく、後悔はあり。(爆)ただのアホだろ、あれ。

 

大抵酒類は、美味しいから飲むのであって、酔っ払いたくて飲む訳では無い。私の場合は。

でも今日は、どっちかっていうと酔っ払って意識を飛ばしたい。精神的迎え酒といおうか。故に、常備している「美味しい」酒類を消費するのは惜しい気がする。(爆) 

 

自分で言ってりゃ世話無いが、最近の自分を「ユルイな」と思う。イヤ、元がきつすぎるという自覚もあるが、そう思うあまり「あ、手加減しなきゃ」という意識が、時に行き過ぎるきらいがあるかもしれない。

酒の上に限らず、自分で「ああ失敗」と思う事件は時々起こる。

それらが失敗であったのか、まあ別によかったのか、他に方法があったのか、他の方法を取らなかったから、わからない。どうだったのか、どうなったのか、考えてみても答えが出ないので、同じような場面で、わかっているのに同じ失敗を繰り返したりする。

というか、他人が絡むと、自分の失敗だったのか相手の失敗だったのか、相性の問題だったのか、結局わからないので、まるで学習効果が上がらなかったりしたもんである。若い頃は。

最近は、すっかり興味が薄れた事に、興味があった時代とは行きがかり上正反対の対応をしたところ、思いのほか好結果、というか害が無い。ということに気づいて、あ、こうすれば良かったのか。とか思ったり。

でも、なくしたものは戻らないのだから、今更正解なんか知りたくなかったりするかもしれない。結局自分が充分大人じゃなかったから上手く対処できなかったという事実に今更対面してもキツイだけじゃないか、とか。

だったら、繰り返し失敗し続けて、繰り返し失い続けて、何がいけないんだろーねー。わっかんないなー。って言っていたほうが幸せだったりしないだろうか。

 

 

 日本語吹き替え版初めて見たー。

 http://sadymudy.hatenablog.com/entry/2012/11/08/

 

 

忍耐からギミックへ取り留めなく連想ゲーム

思いつき 音楽とか。

抽象から具象へ、間接から直接へ、比喩から具体例へ

 

 

テテ「君の人生のサウンドトラック」

何この全体的にダサ懐かしい歌謡曲的プレゼン。

レコード会社変ったのねー。新しいと思ってた4thから既に3年ぶりなのねー。そりゃー3rd後の来日で「ステージが見えなくて飛び跳ねてたから」、とアーティスト自ら客席から引っ張りあげてステージ袖で見させてもらった小さい子が、今や聳え立つ電柱みたいにもなるわ。

 

テテのことを書きたい訳では無いのですよ。ただこの邦盤、元々がフランス語なので、かつての英語に対する扱いに近いのか、アルバムも、曲のほとんども、全体的に「日本語タイトル」がついているんですが、なつかしくね?昔は多かったなあ~。カルチャークラブの「君は完璧さ」(Do you realy want to hurt me)とか微妙に訳にもなって無いクウォーターフラッシュの「ミスティハート」( Harden My Heart)とかウォーターボーイズの「異教徒の大地」(A pagan place)とかジャパンの「孤独の影」(Gentlemen take polaroids)とかラット「情欲の炎」(Out Of The Cellar)とか担当者の愛も感じはするものの、もはや意味不明。特にメタル系の大仰さはもう笑かしだろこれ、と。これは脱線。

ま、消費者としてそれなりの歴史がある人間はあれこれ思い出しちゃうわけです。

 

「人生のサウンドトラック」、というところがまた、擽りますな。てかそれってもう「演歌の花道」に近づいているということでしょうか、私が。(爆)

最近のもうまるでドラマ効果音に近いギミックに慣れた耳にはこのポップに音楽化された詩情というのがまた、さすがだなーと。 今回は凝った演奏になってるけれど、この人はギター1本を実に余すところなく効果的に使い倒すバスカーな弾き語りも魅力である。全部ギターに変換される。うん、洗練されているというのが当っているんだろうな。

 

小学校の時、詩作の授業で「そのものズバリの言葉を使うな」というお達しを受けたことがある。「とにかく型にはまった表現をするな」と。

あるとき私は寒くて震える様を現すのに「ぶるぶるっ」という擬態語を使ったのだが、そこだけが糾弾された。「寒かったら【ぶるぶる】って考えるのが【型にはまった】表現なんだ」と。人が震える時実際に「ぶるぶる」なんて音するか?と。

うんー、その辺は意識したんだけど、どうしても思いつかなかったのだ。震える様を表現する言葉を。思いつかなかったけど、その時は【震えた】事実を伝えたかった。震えなかった事にはしたくなかった。でも、良い表現を見つけられなかった。その後も、どうしたら良かったんだろう?と暫く考えたが、感じたとおりに書いたんだからもうしょうがない、ということで「ベタでスイマセン」と書き直さず終わった。ある程度型にはまった左脳人間であるのはもう厳然たる事実だし。

なんでこんな話が出てくるかというと、だからといって、震えている効果音を文字に変換しない、或いは詩なのに動画をつけるとかしたら反則になる、その土俵内で収まる戦法を取るという無言のルールの上で作るストイックさを、最近見かけないなーと、ふと思ったので。というか使い古された物を使いまわすだけでは確かに何かの花道になっちゃうんだけど、狭いルールであっても、制約の中でさまざまな可能性を掘り起こすというのが、あっても目立たないのかな、と。

 

というか直接効果音、入ってる。サイレンとか、ガラスが割れる音とか、ブザー音、モーター音日常の効果音。

それによって記憶を直接刺激される、ナマな表現が多い。音楽でも、現代美術でも。それってある意味掟破りだったんだけど、いまやそんな掟存在しない。無法地帯だ。

なんでもアリが芸術なんだからいいんだけど、なんか牧歌的な戦国時代の武将が「やぁやぁ我こそは…」なんちて名乗ってから一騎打ち、なんてやってたらいきなりバズーカ撃ち込まれました、みたいな。

 

勝手な掟を押し付ける言われは無いんだけど、なんていうんでしょう、努力はそこはかとなく上品ではあるわな。

 

直接表現が嫌いということではまったく無いのです。ただそれを避けつつ、間接で最大限の効果的表現を提示するということのほうが技術はいるよね、と。そのものを使うって言うのは、つくる人より味わう人で。

型にはまらないというのも、行き過ぎると「理解できません」と言われるもんではある。表現したいものを表現して結果、理解されない、のは仕方が無いとして、【型にはまらない】事を目的として表現するというのは…、どーでしょう、パンクは死んだの随分前だしねぇ。

という取りとめも無い連想が続く。私は何処へ行きたいんだろう。今日は飲んで無いのに。(爆)

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恥ずかしいは快感か・脱線編

本、とか。

※今回エロ要素はありません。本日もよっぱらってます。イタリア土産のグラッパを片付ける為に炭酸入りミネラルウォーターを買ってきました。(爆)これでガブガブ行っちゃいます。

 

↑毎回あるとは言えませんが(爆)ちなみにフィリップスによると「セックスしない事を前提としてしまうと関係が脆弱化する」んだそうで、ああそうか、だから私は人間関係が希薄なのか、とか。おおおおおおい!

 

親密性

親密性

・・・さて。脱線します。

「恥ずかしい」のが「気持ちいい」になるには予め「恥ずかしい」気持ちが無いとどうにもならないわけですが、何が恥ずかしいかは当然のことながら人による。時代による。文化による。

 

ひところ言われた朝の通勤電車の中でメイクする若い女の子の姿を、「恥ずかしい」と思うか思わないか、みたいな話はきっと常にあるわけで、共通認識共通羞恥概念が無いことには成立しない話だったな、と思うわけです。それで滞ってるんですがねぇ。

 

先日、ある思春期の子供の集団を見ていて、ふと思い立って声をかけました。いつもだったら見てみぬ振り、というかピックアップした一人だけをフォローして終わるところを、集団の中に割って入り、【注意】じゃないけどそれに近い介入をしてみました。 

その結果その子供たちはどうしたのか、残念ながらまだ後日の情報が無いのですが。

 

要は【弱い子を集団でからかう】という行為に対して、【あんたたち、やってること恥ずかしくない?】ってことなんだけど、多分あの時点では皆、恥ずかしくはなかっただろう。何せ思春期の男の子集団に対してオバサン一人である。あっちの方があの場のマジョリティだ。

期待しているのはその中の、私が以前から知っている子が【かつてそんな状況を見て抵抗と不安を感じていた自分が、いまや同じ行為を行う様子をずっと見ていた】私の視線に対して、或いは私の背後には彼自身のご両親の影もあるわけなのでそちらへの影響を懸念すれば、元々決しておバカさんではない彼がどう出るか。である。

 

この元々決しておバカさんではない彼、に私の期待は限定されている。他の子達は無理だから。つまり彼以外は注意されても【大人にバレてめんどくせぇ】とは思いこそすれ【恥ずかしい】とはならんだろうな、と。

 

この【他の馬鹿はいいや】(ゴメン)という心理は結構【他は好みじゃないわ】ってことだ。ま、馬鹿には馬鹿へのアプローチ法があり、この馬鹿へのアプローチをわが子には如何無く発揮しとる自分ではありますが(爆)ここでは置いておきます。

やはり、解かり合える(のではないか)と思う期待があって成立するのである。恥ずかしい、も。

 

 

サカナクションの新譜がいつの間にかチャート一位を獲得したんだそうです。ものすごくズレた言いようですが、彼らの作品を知ったのはごく最近のことでして、発売を待って購入したのは前作「ドキュメンタリー」が初めてでした。「へぇ。すごいな最近の邦楽は。トレヴァー・ホーンの中毒性サウンドと日本の現代詩人(適切な例を思いつかないが)が合体したら、あざといけど無敵だしな。」的なことをどっかに書いたんだけれども。しかも山口一郎の声のこの日本的というか親ニューミュージック性というか私小説っぽさと言うか、コレニッポン。顔ナンチャンだし無敵も無敵、聞く人皆が難聴になるほど中毒したらどうするんでしょうか。しかし早くも達成してしまったんですね。国内でのマジョリティを、共通理解を、確かな物にしたんですねぇ。

 

私は母国語を共有しない人と本当には共感できないと、体験的に思っていますが、多くをを共有できないからこそ、ほんの少しの共感が非常に貴重でありがたく思えるという意味で、母国語の違う人、言語理解の「違う」人と僅かな共感を得た瞬間の重さを日々感じては居ります。

でも、本当のことを言えば、共通言語を持たなければセックスアピールも感じなーい。

それは他者との接触というものが単純に肉体感覚のみでは完結しない。脳への更なる高効果こそが快感の源泉であるという、そこが、言い尽くされているとはいえ人間と動物の違いなんだろうと。

コミュニケーションに障壁を伴う相手であっても、まるっきり何も共有できない訳では無いし、人間関係は何も言語だけに頼って成立するものでも無い。言葉を越えるものはいくらでもある。しかし言葉が無い、言葉で表現できない物が、脳内で分類できず名前をつけられない感情感覚が、未整理の断片ファイルとして澱のように沈んで堆積していけばいつかその関係は破綻する、或いはフリーズを余儀なくされると思われる。言葉が要らないほど単純素朴な生活を送っているので無い限り。

言葉は溢れ返っていて、伝える能力の重要性はかつて無いほど強調される。「つまらない」「伝わらない]という評価が「断罪」たり得る。

その中であれやこれやもっともらしく言い訳しながら求めているのは、要は「俺を解かってくれ」いや、「解からない奴は馬鹿だ!」ってことじゃないのか。相手の能力の低さはつまり「俺」に対する理解の低さ薄さ。「シジジィと愛情乞食」の例えを思い出す。これも記憶の澱。

 

共感を強要されるのは誰しもあんまりいい気はしないだろう。でも自分の感情には共感して欲しい、誰しも。

心理操作的な意味合いで、やたらと質問してきたり褒めてきたりする「ビジネスハウツー、自己啓発セミナー系」対人スキルも一部、根強いシェアを維持しているようだ。もっとも「共感」からかけ離れているそれらも、簡単な通貨のような価値があるようだ。

「解かられてしまう」事が「恥ずかしくてキモチ良い」事なら、それらはチートだが、うまくいけばなんかのおこぼれにありつけるのかもしれない。サモシイけど。

 

と、言うわけで脱線は帰着点を持たず。

あああああなにいってるんだかわかんねえよばか。

 

冒頭の彼のその後の行動はまた、会える機会を待って確認するしかない。確認の為にはこっちから積極的につつく必要があるが、彼には期待しているから苦ではない。

 

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 グラッパ、片付いた。

 

 

 

 

 

 

 

声フェチ

思いつき

「そこ?」というツッコミをよく受ける。

 

だいたいちょっとズレている、的が外れている、というのは仕様です。

第二子ってそんなところ無いですかね。親の期待を一身に負って王道を行く第一子の斜め後ろから、あさっての方角を眺めつつ、脇へ寄ったり後ろを向いたりしながらウロチョロついていく。で、周囲が振り向いた時には逆走していて姿が見えない。

「オマエは良いよな」と言われてしまう。

 

ボン・イヴェールよりジェイムス・ブレイクの方が声がベター。

って言ったら「そこ!?」と突っ込まれ。

 

でも声って重要だ。骨格と同じぐらい。否、場合によっては骨格以上に声に左右される。好嫌を。

クリスピアン・ミルズの声は最初ダメだったけど、何年も息子が聴いているのを流れ聞いているうちに慣れたのか、最近は大丈夫だ。とどこかで書いたが、やっぱり慣れない声って言うのもあって、極端と言えば極端なのかもしれないが、私は好まない声の人物は丸ごと信用しない、という場合もある。高いとダメとか、鼻に掛かっちゃダメ、とかそういう具体的なタイプ分けがある訳では無いのだが、これが最終的な決定打になることが結構多いのだ。

 

先日、「世界中何処へ行ったとしても、言葉が通じなかったとしても、目を見て相手を判断する」と言う人の話を聞いたんだが、私はあんまり見てない。だって覗き込んだ目が、死んだ魚だったら怖いんだもん(爆)。代わりに声で結構決めてるかもしれない。

声質もそうだが、喋りの聞き取り辛い人も苦手である。自分が「空耳頭巾」と呼ばれるほどの「聞き間違え迷人」だからと言う事情もあるが、カツゼツ云々ではなく、声をアウトにしない人には疑いを持ってしまうのだ。何の根拠も無いのにそれは「卑怯だ」とか感じる。考えている訳では無い。感じてしまうのでどうしようもない。あまりにも自信なさげでハッキリとは喋らない人、と言うのとは違う。操作的上から小声の人、無理。あと猫なで声、無理。特に男性の猫なで声は意外と多いんだがもうそれだけでサヨーナラー!!!っと手を振りたくなる。

気を使っているから猫なで声なのかも知れないが、そこ、ツボじゃないから!変にかっこつけて逆にイタい声を出すのよりももっとダメ。

一般傾向としては高い声、細い声は男女問わず「そりが合わない」と感じる。電気的過ぎる声も作りこんだ排他的印象を持つ。無防備なブットいボワボワ声の女の子なんかは大好きだ。無自覚な横広がりの声は嫌いだ。

つくられた営業ヴォイスも、適度なら社会常識のある人、と言う印象を受ける。極端なのは笑える。

 頭蓋に響く、鍛えられた美声の持ち主には弱いが、そこまでじゃなくても強い声、深い声が好き。

だいたい自分の親族男性はみな、この傾向があり、細い声や弱い声の人はいない。多少の掠れが有っても、聞き取りづらいということはなく、ハスキーと言うより、どちらかと言うと「ダミ声」。刺すようなキツイ声に傾いているかもしれない。

声と精神状態健康状態は関係があると思うが、人格そのものが声に現われるかどうかは疑問ではある。

そう頭では思っているのだが、こればっかりは動物的な感覚としか言いようが無い。声で、相手を信用もすれば断罪もしてしまう。誠に勝手極まりなく、失礼な話だ。

 

上記の「目を見て相手を判断する」と言う、その人の声は、信用できなかった。(爆)

 

 Rachael Yamagata Faster - YouTube

 

やっちまった

ええええすみません申し訳ございません御無礼の段なんとお詫びして良いやら…というわけで、土下埋まりしながらお送りします。

 

昨日、「あなたへのお知らせ」に、「〇〇〇さんがあなたの△△△にコメントを書きました」

という表記を見つけました。記憶にある限り、この文言は初めてのような気がします。

選択してみました。

自分のエントリーのリーダーページに飛びました。

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別段何も現われません。

 

 

?同じ時間に、同じ方からスターも頂いていたので、まちがいかなー。と思って一旦携帯を閉じました。

 

 

 

ipadを開けてみまして、サファリでダッシュボードを見ました。

やはり「あなたへのお知らせ」には同じコメントについての表記が。

 

ダッシュボードの左画面に「コメント」という項目がありました。

 

 

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…開いてみました

 

 

 

 

!!!Σ(゜ロ゜;)ほえええええええええええええええええ

 

 

 

…なんて事でしょう。

 

 

そういえばこのブログをはじめた当初、以前使っていたレンタルHPで、スレッドを放置すると、すぐエロ広告に占領されてしまっていた事を思い出し、コメントは承認制を選択したのでした。全く思い出しもしませんでしたが。

てか、コメントがあったらメール、という設定にはしてあったらしいのですが、「お気に入りの更新」情報しか目にしていた記憶が無い…。いや、なんと申し開き致しましょうとも、_(._.)_

 

ここまで間抜けな奴とは自分でも自覚しておりませんでした。

長い物で1年近く…ありえない、ありえません。

 

うううゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ穴があったら入りたい、ってか土下埋まりでした(爆)

 

この際蟄居屏息の上設定理解に励みたいと存じます。m(__)m(数日)

 

 

 

バレンタインデーに使ったばっかりですがまた使用(爆)

 

 

独り言卵

日常茶飯 思いつき

 

このブログはワタクシの何でも聴いてくれる雌鳥である。

ここに書くような事は口に出して人に言えることばかりとは限らない。

というか、あんまり言わないことばかりか。

 

隠している裏の面、というのではなく、わざわざお話する必要のないこと。まぁ下らないんだけど自分的には気になったりメモしときたかったりしたことをツラツラ書いているので、文法的におかしかったり重複表現だったり変換間違いがそのままだったりと、つまりかなりいいかげんなシロモノである。コレをそのままリアルで垂れ流してたら流石に田舎の社会生活ヤバイだろう、という身勝手なグチ書きみたいなもんである。同居する家族もいるが、私は家族の中にいると話を聞く側で、自分が家族に語る、ということは息子に説教するぐらいしかない。連絡事項以外はあまりしゃべりたくはない。理解される事は無いと分かり切っているからだ。

まあ自分でいうのもなんだが、うちの家族は結構優秀で、昔からあんまりにもくだらない事にしか関心がない私は浮きまくっていた。現在は息子が私の影響を受けまくっているため、あまり変人扱いされる事もないが、子供の頃は何か言うと嗤われていたので、家族とは関心事を共有する気がない。

でもその方が良いと思うのだ。人間関係も用途に合わせて使い分けておいた方が長く付き合いやすい気がする。

 

というわけで、ブログは独りごとも独りごと、自分以外誰も読解出来ないだろコレ。と思われる記事もあり、お優しくもお読み下さりスターまで下さる方もいらして、なんかもう色々すいません(;´д`)。

 

んで。すいませんついでに酷いの書きます。逃げてください。(爆)

 

 

 

年度末、下着まとめて買い換えを決行。 

新しく購入する度に疑問に思うことには、

 

最近のブラジャー盛り過ぎ

 

 寄せて上げてくれるのは良いんだが、ナゼにそこまで盛る。サイボーグみたいじゃんか。 それに、カップが薄いモノには必ずと言って良いほどパットが内臓されているが、あのパット付きって、パットを入れてのサイズなのか、パットを抜いてのサイズなのか、どっちなんだと言いたい。入れた状態で表記のカップサイズなのか、だったらデカくなっちゃうし、抜いた状態でのカップサイズなら何故パットが要る?  別売りでいいだろう。パットは抜いて使うので、入れた状態でのサイズというのなら、その分サイズを下げて買わなならん。表記は正確に統一してくれないかしらね。

しかもパット無しの成型カップだと完全にサイボーグだと思うのですよ。

どー見たってカップ自体が分厚過ぎる。見た目サイボーグ化で中身は潰されているという何がしたいんだ状態。Tシャツブラ系は皆それだ。

イヤ盛りたい女心もモチロン解るんだけど、選択肢がないというか、盛るのは廉価で簡易で、抑えるのは高価で希少って、差別でないですか? 

そうでなくても既製服はみんな袖ぐりホッソ!胸元キッツ!な、つまりガリガリスレンダーさんじゃないと似合わなく作る癖に、更に胸盛ったら入る服ないでしょー。

 服に体型を合わせろと言われているようで、大量生産の既製品に人生を合わせろと言われているようで、釈然としない。

釈然としたいか。釈然としたいな。と呟きつつ、タグやピンと一緒にパットを捨てる年度初日。

 いや、はてなでは2013-3-32みたいだけど、今日からでいいのよね。w

 


ラーメンズ モーフィング - YouTube

 

そうそう、ポツネン「P+」。先行予約当たった。

今回は一人。二人で申し込むよりやっぱり当たる確立高いんだろうか。

「P」はNHKで視まして、そんなに期待はしてません。すいません、もう気のもんです。

いいの、愛してるから。

桜と提灯

思いつき

今週のお題「お花見」

 

記事管理の記事を選択する画面でUP済みのものと下書き保存されているものがタブで選択出来るようになっていた。そしたら携帯からは下書き記事はいじれなくなっていて、コレはスマホでも使い易く、とか言っててどーよ?とちょっとタチの悪いおばさん客状態でブブタレてます。

iPhoneアプリiPadで使用していると、書くオンリーでお気に入りとか読めないし、だいたい縦画面でしか使えない。横画面にならないのが不満。Bluetoothキーボードを使用してiPadを操作しているので、縦に立てとかないとならないって結構キツイんですけども。

とか面倒くさい理由がなんとなく「書く」という行動を遠のかせているような、それより周期的に書く気にならない時期なような。

食欲性欲もなくてなんか自分ぽく無いなー。曲がり角かしらね。お肌の曲がり角はとうの昔に過ぎ去って既に忘却の彼方だけれども。自分にいろんな欲が無くなりさえすれば、どんだけ楽な人生だと思っていた時期も、結構在った気がするけれども。なんで自分は、とかなんで自分が、とか、自分自分言ってないと居られない自分の扱い難さよ。ってのがホームポジションなはずなんだけども。(爆)

 

近所の公園に紅白提灯がぶら下がって、ああ、もう桜かい。そういえばブログも花の写真が沢山。皆さん、撮れたての今年の桜をUPされてるってことか。リアルタイムなのか。当たり前か。あらきれー、といっぱい見させていただいていておいて、イマイチ現実味が無かった。あんまり綺麗で。絵ハガキとかテレビ画面みたいで。

公園の提灯は、正直ちょっと、イヤかなり、下品じゃないかと毎年思っていた。公園に限らず、この辺りで桜を観るに適した場所は、かなりな頻度で「提灯付き」である。楽しく演出して気分を盛り上げて、お客さんを寄せて、という目的なのか、地元の内輪だけの無礼講宣言なのか知らないが、いかにも酒盛り仕様。桜の景色を酔っ払い祭り演出して、絶対に桜をランクダウンさせてしまっている。この地域に越してきて最初にこの光景を見た時には軽く吐き気を催した。子供の入学式写真では、提灯をPhotoshopで消して知人への挨拶ハガキを作った。

 

しかしもう桜かい。なんて言っている今年の自分は、何だかその下品な光景になんとは無しに郷愁を覚えている。夜通りかかるその夜桜風景の、主役は桜では無くて提灯の方だ。だだっ広い田舎の公園、もしくはど田舎の川の土手っ淵にデカデカと枝を拡げる青白い桜の列を数珠のように繋げて続く提灯。たまにしかいない花見客。花の白さと提灯の灯りの背景には黒々とした田舎の夜が広がっている。

真っ黒な夜に対抗するような、胡散臭くて、下品で、刹那的で、薄気味悪い、人間の足掻くようなささやかな儚い享楽。

満開の桜はそれだけでも恐ろしいが、それに熱狂する我々日本人も、何か、どこか、決定的に「諦めた」或いは「誤魔化した」人種のような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

なんてなー。